ブックレポート


こんにちは。
論文代行の書ける屋です。

ブックレポートのポイントについてご説明します。

まず本の探し方。
お住まいの地域の図書館でweb予約をすると、スムーズに本を受け取ることができます。
また、読み込む時間も必要なので、借りに行くプランも2日ほどは余裕を持たせましょう。
あとで引用したい部分に、付箋をはるか、紙を挟む、もしくはページ数を紙にメモしていく、と、その後本からまるっと引用する際に楽になりますので、覚えておきましょう。

また、レポートの頭には、もっとも共感した事柄を持ってくるようにする(引用であればその文章を)と、そのレポートの印象がグッと締まります。また、共感、強調したい部分は最後に繰り返して使えるので、一番最後のまとめに、また登場させましょう。(少し言い回しを変えるとそれらしくなります)

共感したこと、学んだこと、それを自分に照らし合わせてどうか、を書き進めていくとそれなりに文字数がいくので、ここで、頭から読み直し、文章に補足を入れて行きます。1度目では読みにくかった文章も、2.3度目を通すことで、肉付けされ、読みやすい文章へと変化します。そして文字数も稼げます。

その後、文字数がまだあるようであれば更に別の事柄を引用し、意見を述べていく、、、
このような流れで仕上がると思います。
全体の文字数からバランスを考え、引用で稼げる文字数はある程度引用するのもポイントです。

また、本を読んで全体を把握するのは、やはりレポートを書く上では必要ですので、頑張って読み込みましょう。
文字の細かさや言い回しによっては読みにくい本もあるかと思いますので、いくつか選べる場合は見比べて書きやすいテーマのものを選ぶといいでしょう。
こちらにご依頼の場合も、ある程度日数を見ていただけると助かります。
また、どのような言い回しで文章を組み立てているのか、ご依頼主様の文章で、参考になるものがあれば幸いです。
どうぞよろしくお願い致します。

 

レポート課題サンプル「ソーシャルワークの価値」


論文代行の書ける屋です。本日はレポートサンプルとして「ソーシャルワークの価値」を公開します。

ソーシャルワーカーの価値綱領には、要約すると人間の尊厳の尊重・社会正義の実現を目指すと書かれている。このようなソーシャルワーカーが何故必要になるのか。それは存在する価値があるからである。例えば、医療の世界には医療ソーシャルワーカーという存在がある。このような人々は、患者・患者の家族・医療従事者の間をとりもち、患者が希望する生活をできるだけ送れるように、制度などを利用して、現状を改善していくのである。このような例にみられるように、ソーシャルワーカーは当事者と周囲の人々の間に入り、現存する制度などを利用しながら、当事者の悩みなどを解決していく。あるいは、現存する制度で無理ならば、新たな制度を提案する必要もある。当然、間に入り、制度を利用するには、専門的な知識がなければならない。

人々は生活していくにあたって、問題を抱えることが多くある。その時、その問題の詳細を知らなければ、解決が難しかったり、解決までの時間が長くなったりするかもしれない。専門的知識を持たない素人だけでは限界がある。そのため、専門的知識を有する専門職の助けによって、問題を解決できる可能性が高くなる。このように人間の尊厳の尊重・社会正義の実現を実現するためには、専門職としてのソーシャルワーカーが必要になる。そこに、ソーシャルワークの価値が見出されるのである。

論文代行見本「表現の自由」


卒論代行・論文代行の書ける屋です。先ほど法律に関するお問い合わせのお電話を頂いたので、今回は憲法の「表現の自由」を取り上げます。法律関係の学問に取り組んでいる方にとって、憲法は避けて通ることができません。また、法律を専門にしていない方でも、一般教養科目や必修科目で憲法と向き合う場合があります。今回の表現の自由は、マスコミやマスメディアの報道姿勢とも絡むので、ホットな話題とも言えましょう。

本論では、表現の自由について述べる。

表現の自由は、「集会、結社及び言論、出版そのほか一切の表現の自由は、これを保障する。」とした憲法条文二一条第一項と、通信に関して述べた第二項によって規定されている。思想及び良心の自由が、主に個人の内的な活動についてのもの、つまり「内心の自由」であるのに対して、表現の自由は外部にそれを発信するという性質を持つ。そのため、内心の自由よりもより公共の福祉を理由とした制限を受けやすい。しかしここで重要なのは、その表現が誰かの権利を侵害し、公共の福祉に反するかどうかは、その表現が実際に行われるのを待たなくてはならないとわからないという点である。こうした点から、二一条第二項において検閲の禁止を定めたのである。

事後的にある表現が反しうる公共の福祉とは、例えば過度のわいせつ性であるとか、私人のプライパシーに関するものであるとかである(1)。また表現の自由に関する重要な判例の一つとして、外務省機密漏えい事件がある。これは一九七二年五月の沖縄返還に際して、日本からアメリカに400万ドルの供与という密約が交わされたことが野党委員によって暴露され、その情報が外務省女性事務官と毎日新聞記者によってもたらされた事件であった。

この裁判では、表現の自由が国家の秘密に対してどの程度迫りうるか、またそうした表現のための資料収集活動はどのような法的位置づけを持つかが争点となった、判決では、国家の秘密の内、合法でかつ実質的に秘密として保護するだけの価値がある情報については保護されなくてはならないとし、外務省女性事務官は国家公務員法一〇〇条一項「守秘義務違反」によって有罪となった(2)また資料収集活動は報道という表現の自由のためのもので尊重に値するという前提の下、毎日新聞記者が女性に肉体関係を持った上で情報漏えいを促したこと点が社会観念上許されないものであるとし、記者も有罪となった。

(1)(2)

どちらにも共通しているのですが、憲法の理念にのっとってさえいれば、「何をしてもいい」とは限らないというのが論文やレポートを書く際のポイントになります。論文を書く際のコツになりますが、一般論を追っていくだけだと、甘い考察にしかなりません。普通に考えたら起こりえない例外事例がなんなのか、いわゆる「法律に抜け穴」のようなものを見つけ出す視点で取り組むと、論文としての深みが出たり、新たな論拠が出たりします。

 

論文代筆サンプル「教育カウンセリング」


論文代行・卒論代行の書ける屋です。今回は論文代筆サンプルとして、「教育カウンセリング」を取り上げます。レポート課題は「学校カウンセリングとは何ぞや?」を想定しています。

学校カウンセリングは、人間性信頼を基本原理としながら、青少年の不安感や混乱感を除去し、不安感や反抗刊を変化させ、消極的態度や否定的態度を積極的態度や肯定的態度に変えさせるものである(1)。また、青少年たちに望ましい人間関係を体験させ、人間不信感を人間信頼感に変える態度変容や行動変容に関する新しい原理や方法を開発する教育活動である。そのため、学校カウンセリングは、現代社会の全領域で必要とされるものであるが、特にこの活動が学校教育の中で青少年の人格変容を目的とした活動としてもっとも強く必要とされるのである。

現代社会は、科学技術の発展を中心としながら現代人に物質的に豊かな、便利な生活をもたらした。しかし、その反面子どもたちの生活を困難にする多くの矛盾や混乱、欠陥をももたらした(2たとえば、子供たちは自らの将来に大きな不安を抱き、大人に対して不信感を発達させている。その結果、生活に意欲がなくなり、理由のない反抗や否定的態度を発達させてしまっているのだ。また、生活全般が都市化し、人間的な親密なコミュニケーションがなくなったため、子どもたちが望ましい仲間意識、社会性、協調性を発達させる環境が失われてきているのだ。さらに、情報社会という現代社会の中で、子どもたちは大量情報伝達の一方的な受け手となり、情報過多になり、意識の多様化、価値観の多様化のために悩まされることになるのだ。

かつては、「教育」と「勉強」は同じものとしてとらえられていた。教育とは、必要な知識や技術を子供たちに効果的に教え込むことであり、彼らに効果的な学習活動を持たせることである。しかし、現代では教育とはもっと幅広い活動と考えられるようになった(3それは、人間形成に関する種々の活動である。教育の領域には、学校教育のほかに家庭教育や社会教育がある。学校教育の中でも教科学習のほかに課外活動や学級活動などがあり、人間の全面的発達ということでは、このような活動も大切な教育活動であるとされているのである。

>(以下ポイント解説)

(1)どんなレポートでも、最初に課題内容に対する答えを言い切ってしまうとラクになります。最初の文章に合わせた話を書きならべていけばいいという作戦です。「一言で答えを言うなら何だろうか」と常に考えてみましょう。

(2)現代社会の有名な特色ですね。実はこの表現、すごく便利です。技術や経済の成長だけが私たちの幸せを向上させるものとは限らないという論点です。この点については議論の余地がありますし、様々な論文で視点も異なり、意見も対立しています。ですが、論文やレポートを書く際には「こういう視点もあるよ」ということで知っておくと便利です。

(3)たいていのテーマで無難にレポートの評価を稼ぐために便利な言葉です。「幅広い」。あとは、「意義が高まっている」。大人の事情になりますが、社会的にニーズが高まれば、研究の意義も出てきますし、研究費も獲得しやすくなります。そういった大人の方々の気持ちをしっかり汲みとれば、先生方の研究を盛り立てるような内容は喜ばれます(もちろん内容をしっかり書くことも大事ですよ!)。

以上が今回の論文代筆サンプルとアドバイスです。

論文サンプルー夏目漱石「こころ」


論文代行の書ける屋です。卒論代行や論文代筆のサンプルにはいろんなネタを選んでいますが、たまにはベタなものということで、夏目漱石の「こころ」感想文を公開します。

読書感想文やレポートではいろんな視点がありますが、「今と昔の共通点」に着目するのも重要な観点となります。

私が夏目漱石『こころ』を読んだのはこれが初めてではないが、昔読んだときと比べるとだいぶ読後感が違った。後半の先生の回想の手紙が印象的なのはもちろんそうだが、明治末の大学生の生活を垣間見ることができるのも面白かった。文系の学生が門外漢には意味のわからない哲学書を読んで解説してきたり、卒論に追われて論文をさらいまわったり、その提出が手を尽くしてギリギリ間に合わせられたエピソードを聞いたり、そういった点は今の大学生と変わらない。ただ就職についてはずいぶんのんきにしているのを見ると時代が違ったのだなあ、と思う。
そういったところは今も明治も学生は同じだが、やはり大きく違うところもあった。私たちが色々なところで「最近の若い人にはこういった傾向がある」とよく取り上げられているように、考え方の傾向とでもいうべきものは、時代を反映してどんどん変わっている。この作品の中で先生が言及した「明治の精神」がそれにあたるのかもしれない。しれない、と自信が持てないのは、先生の言葉が示しているものと、私がこの作品を読んで感じた「明治の精神」とが違うもののように思われるからだ。
明治の人であることが関係しているのかどうかはわからないが、先生もKもまっすぐで、言うなれば「熱い」性格だった。特にKは無口で勉強熱心、望みが高く、それでいてお嬢さんに抱いた恋心をどうすればいいかわからなくなってしまう純粋な性格の持ち主で、少女漫画に出てきそうだとさえ思う。自分に厳しく、とても真面目で遊びもしない、というまっすぐなところが昔の人らしいところだろうか、と感じた。だが、Kはそうして頑張ってはいたが、おそらくやりたいことはわかっていなかったと思う。高い精神を持ちたいとは思っていたが、それがどういうものかわかっておらず、しかも恋愛のような俗っぽいことは専門外であったから三角関係では親友に負けた。遺書にあった「自分は薄志弱行で……」という自殺の理由は嘘ではないように思う。まっすぐで厳しい「明治の精神」は、不器用なことも意味していたのかもしれない。
一方で、先生については、先生が手紙で自分を責めているような印象が言外にあるからかもしれないが、人間の弱いところが全部出てしまったかのような、そんな弱さを感じた。先生は「私」に対し、「人間は普段は善人でも、金が絡むと急に悪人になる」という旨のことを言っていたが、そういうことは本当に紙一重で転換してしまう。先生が気付いていたかどうかはわからないが、この言葉は「金」を「恋」に変えると先生にそのまま当てはまる。実際、恋愛のことになると友情がぎくしゃくする、ということはよく聞く話だし、むしろありふれた事態かもしれないが、客観的に先生がとった行動を眺めていると、なかなか残酷であるように感じた。確かに、恋愛の問題は難しく、面と向かって宣戦布告をしたところで友情に影響が出るのは変わりないだろう。また、一人の異性に恋をした人が複数いたら、その取り合いが戦いの様相を帯びてくることはある意味仕方のないことだ。戦略的に行動してその人を勝ち得たい、と思うのは自然だし、その人のことが好きであればあるほど、行動は狡猾になってしまうかもしれない。しかも、時代を感じさせる点だが、先生はKにこちらの恋心を黙ったまま弱いところを突いてお嬢さんから遠ざけただけではなく、恋人になるという段階を飛ばして結婚まで決めてしまった。Kの立場から見たら、完全に裏切られたと思うだろう。失恋はKの自殺の理由のすべてではなかったと思うが、引き金になったのだと思う。恋愛に鈍感で、むしろ軽蔑していたようにも見えるKが、その弱いところを認め、先生の前にそれを告白したのは、やはり友人だという信頼があったはずだ。それを裏切られたら、人生に迷っていたKは、すべてを失ったように感じるだろう。
このような自分に対する異常なまでの厳しさが、「明治の精神」なのではないかと思う。先生は、彼の魂を思って死ぬ、という意味で「明治の精神とともに死ぬ」と言ったのだろうか。それとも、責任のために死ぬ、という意味でそう言ったのだろうか。そこが私には疑問だ。だが、もし後者なのだとしたら、先生の行動は責任のない行為だと思う。自分のしたことに罪悪感を抱いているのなら、しっかりと職に就いて、静さんを死ぬまで養っていくのが筋なのではないか。そう思うのは私が最近の人間だからなのだろうか。
しかし、恋のために友人を裏切ってしまったのも、その罪悪感に耐えきれなくなってしまうのも、人間の弱さなのだと思う。先生が特別に弱い人間なのではなく、人間の弱い部分が全部出てしまったのだ。それは紙一重で起こることだから、いつ誰に魔がさして、人生が狂ってしまってもおかしくない。
登場人物の行動から、人間の性質のようなことなど、色々なことを考えてしまった。読者に色々なことを考えさせるから、『こころ』は今まで名作として読み継がれているのだろうと感じた。「私」が電車の中で先生からの手紙を読んで、どのように感じ、どのような行動をとるのかもとても気になるところだ。

(代筆サンプル、以上)

ポイントは後日解説したいと思いますが、ある程度の分量を書くことが求められる場合、論点をあらかじめ何個か明確にしておくことで、筆が進むようになります。

老人福祉論サンプルレポート


こんばんは。論文代行・卒論代行の書ける屋です。福祉や介護の分野で勉強されている方のために、今回は老人福祉論のサンプルレポートを公開します。当社にもこの分野の代筆の依頼は多く来ますが、「高齢者」と聞いてイメージされる景色が人それぞれあまりにも異なるため、レポートで評価を得るのが難しいと感じている方が多いです。では、まずはレポートをご覧ください。
高齢者の社会的孤独を防ぐためには、地域の協力と高齢者の積極性が必要である(①)。まず、地域の協力とは高齢者に興味を持つことである。興味を持つとはその言葉通りに興味を示すだけでなく、そのあとの活動も含まれている。地域は高齢者を阻害するのではなく、高齢者に対しての地域でのイベントや、すごしやすい様な街づくり、例えば、バリアフリーやバスなどのインフラ整備、などを提供し、社会に出やすい環境を整える(②)ことが必要である。これは地域にとっても高齢者の知恵や知識が地域に還元され、経済活動も活発になるので地域の利益にもつながると考えられる。

次に、高齢者の積極性も必要である。地域や周りの人がいくら高齢者に興味を持ち、協力しようとしても高齢者の側にモチベーションや受ける気がなければ意味がなさない。そこで高齢者も趣味や生きがいを見つけ、積極的に外へ出たり、人との繋がりを作ったりして、地域の協力を受けることが必要である(③)。地域と高齢者どちらか一方だけが社会的孤独を無くすよう頑張るのではなく、両方が努力し、手を差し出すことが高齢者の社会的孤独を無くすのに必要である。

以上がレポート内容になります。上記サンプルで強調した三点を補足します。

(①)高齢者の社会的孤独を防ぐためには、地域の協力と高齢者の積極性が必要である

→このレポートの方向性を最初に明示しています。人間関係を円滑にする有名な言葉の1つに「ギブ&テイク」という言葉があります。高齢者福祉で抜け落ちがちな観点ですが、「私たちが高齢者に何かしてあげる」というスタンスばかりでは、高齢者の方にとっても真に幸せとは言えません。高齢者の方の知恵や経験など、彼らの能力が生かされるような形も作らないと、一方的な関係になって、無理が生じてしまいます。

(②)例えば、バリアフリーやバスなどのインフラ整備、などを提供し、社会に出やすい環境を整える

→具体例を挙げるのはどんな論文でも大事なことです。もっといい例も数多くあるので、ここはオリジナリティをぜひ発揮しましょう。

(③)高齢者も趣味や生きがいを見つけ、積極的に外へ出たり、人との繋がりを作ったりして、地域の協力を受けることが必要である

→①であげたように、「高齢者は何をすればいいのか?」という提言です。この問題に関係するすべての関係者が何らかのアクションを取ってこそ、長く無理なく続く社会をつくるうえで重要です。

以上が、老人福祉論のレポートサンプルと解説です。

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マーケティング論レポートサンプル

レポートのコピペはなぜバレるのか

マーケティング論レポートサンプル


こんばんは、論文代行の書ける屋です。今回はマーケティングで使えそうなレポートサンプルを公開します。「マーケティング」は身近によく聞く言葉ですが、語源や広がった背景などは意外と知られていないですマーケティング論の卒論やレポートを代行する際に、依頼主さんに質問することもありますが、本当に全然答えられない分野でもあります。逆に、こうした部分を知っていることで、論文執筆の際に深みを出すことができるようになります。

アメリカでマーケティングが発達した理由は、南北戦争後の生産力の急激な拡大に対して、それらを消費する市場が限られていたからである。そのため、過剰な生産力を生かすために、新たな市場を作る(market+ing)ことが必要で求められていたのである。そして、企業が市場の需要と供給を調節する必要に迫られ、様々な試みがなされたのである。また、アメリカは国土が広いにも関わらず流通機構が整備されるのが遅れたため、その状況の中で事業を営むため、生産側が広告等で顧客に働きかける必要もあった。
歴史を見ると、南北戦争後、鉄鋼脈、銅鉱脈、銀山などがつぎつぎと開発され、製鉄業をはじめ経済を支える基幹産業の基盤が築かれた。また、鉄道建設も進められていった。これによりアメリカは、膨大な生産力を生み出すことになったが、それによって産出される生産物の市場の方に目を向けると、当時の海外市場は、列強による植民地の領土分割がおおむね完了していた。そのため、アメリカの生産者は、自らの生産物を国内市場で販売することに重点をおく必要があった。
しかし、当時のアメリカの国内市場は、1890年代のフロンティア消滅によって限られていた。つまり、海外への市場開拓に当初から制約が加えられ、国内市場の拡大がほぼ限界に達するといった状況で、急速に拡大された生産力を前にして深刻な市場の問題が起こった。
アメリカでは1873年と93年の恐慌を間に挟み、彼ら起業家はほとんど10年ごとに深刻な不況や恐慌に見舞われるという経験をした。こうした状況の下で諸企業は、自らの生産物価格の安定維持を求めて、部分的には需要サイドに働きかける努力も含めて、相互に激しい競争を展開し、費用上の優位性と独占度の増大を求めて、積極的に新しい技術や科学的知識の取得とその産業化に腐心した。しかし、その結果、彼らの意図とは裏腹に、それぞれの産業市場において一層の生産規模・生産能力の拡大、したがって一般的過剰生産状況のさらなる深刻化に直面し、ここに、独自の問題としての市場問題の解決が緊急の課題として強く意識されるようになった。

以上がマーケティング論レポートサンプルになります。

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文学レポート「桃太郎と四人の力士の比較」の解説


論文代行の書ける屋です。前回の記事でお見せした文学レポート「桃太郎と四人の力士の比較」の解説をします。

1 テーマって何?

文学作品の比較は、極端に言うなら、「どんなところが似ていて、どこが全然違うのか」を明らかにすれば、ほぼおしまいです。もちろんまったく異なる作品を二つ並べても比較対象にならないですが、ある程度ストーリーなり時代背景が似ているのであれば、比較検証する価値が出てきます。

2 登場人物の場合分け

どの文学作品でも登場人物は複数出てきます(中には自叙伝のように例外もありますが・・・)。今回の桃太郎と四人の力士では、主人公とその他の登場人物に分けて書きました。

3 主人公の共通点

ざっくばらんに、ハッピーエンドなのか、バッドエンドなのかを分類し、ハッピーエンドならどんな終わり方なのかを把握します。桃太郎は皆さんご存知の通り、経済的にも家庭的にも幸福が訪れますし、四人の力士でも同様です。

4 脇役の共通点

多くの物語では、読者が感情移入する対象なので、脇役の処遇や微妙なことが多いです。桃太郎でも四人の力士でも微妙ですよね?論文としては、主役と脇役の格差としてまとめるのも一案ですが、今回は「彼らが主人公と出会わなかったらどうなっていたのか?」という観点から論じました。経済的にも家庭的にも彼らにはメリットがほとんど見当たりませんが、「主人公と出会えたからこそ、能力を発揮する場があった」という議論を提示しています。

5 違う点

二つ以上の文学作品を比較すると、異なる点はいくらでも出てきます。どこに切り口を当てるかで深みに天と地ほどの差が出ます。桃太郎と四人の力士でも細かい点では異なる点だらけですが、日本と朝鮮半島という地理的要因に焦点をあてました。

この地理的要因は、卒論やレポートを書く際に非常に便利です。半ばコジツケととられる場合もありますが、読者がなんとなく納得してしまう効果があります。他の分野でも生かすことができますが、「日本は海に囲まれていて、逃げ場がない」「大陸なら、どこへでも逃げていける」こういった地理的側面は書くだけで字数も膨らませますし、新たな視点を論文に持ち込めるのでおすすめです。

以上が、今回の解説になります。

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桃太郎と四人の力士

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文学レポートサンプル「桃太郎と四人の力士の比較」


卒論代行・論文代行の書ける屋です。文学の論文テーマということで、「桃太郎」と朝鮮半島の「四人の力士」を題材として論文サンプルを公開します。文学で卒論を書く際には、海外のものと比較するのもオーソドックスな手法です。様々な作品を比較することで、従来の研究では見いだされなかった発見が出てくることも多いからです。

では、以下サンプルです。

「桃太郎」と「四人の力士」を比較するにあたって、まずはあらすじを紹介する。

「桃太郎」

むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に行きました。おばあさんが洗濯していると、川上からどんぶらこどんぶらこと、大きな桃が流れてきました。

(内容をご存知の方が多いので中略)

鬼ヶ島に向かう途中、犬が出てきて「一つくださいきび団子。お供についていきましょう。」 次に猿が来て「一つくださいきび団子。お供についていきましょう。」今度はキジが飛んできて「一つくださいきび団子。お供についていきましょう。」犬、猿、キジの3匹は桃太郎の家来になり、船に乗って鬼ヶ島へ向かいました。

鬼ヶ島で酒盛りをしていた鬼たちに、犬はかみつき、猿はひっかき、キジはつっつきました。桃太郎は金棒を持った鬼の大将をやっつけました。「もう悪いことはしないか。」「もうしません。」

鬼が悪いことをして集めた宝物を車に積み、犬が車を引き、キジが綱を引っ張り、猿が後押しをして持ち帰りました。

「四人の力士」

 一人の力士が姫の救出を目指して旅をしている。途中4キロ離れた木の葉にとまっている蠅に弾丸を命中させる力士に会い仲間にする。また風より早く走れる才能を持った力士に会い仲間にする。次は台風を自由に起こさせる才能を持った力士に仲間にする。

 その後、魔法使いの怪盗に会い、走り競べに誘われる。風より速く走れる力士が担当するが、途中で居眠りをしてしまう。銃をうつ力士が枕に命中させ、やっと勝利をおさめた。怪盗は四人を閉じ込め、火をたいた。しかし、台風を起こす才能を持つ力士のおかげで無事に出る。怪盗の頭は最初の力士と激闘をして首を切られる。姫を救い出したことで、王様は最初の力士を婿にした。

桃太郎も四人の力士も道中で個性的な才能のあるものを仲間にし、倒すべきものや目標のために冒険をする。そして、褒美を手にするのは、最初に目標を立てた桃太郎と最初の力士という点も共通する。

これらのストーリーから見えるのは、当時、自分から何か事を始めた人が得られるメリットの大きさである。自分から何か事を成し遂げようとする人のもとには、必要な人材が集まり、最終的には目標を成し遂げられる、というメッセージが両方の物語にこめられている。それと同時に、リーダーに追従するものにとっての最大の報酬は、名誉や資産ではなく、その才能を発揮する場が与えられることであるという点も共通している。

桃太郎では、犬はかみつき、猿はひっかき、キジはつっつくという才能を発揮して桃太郎の目標達成に貢献した。だが、かみついたりひっかいたりつっつくという能力は日常的にはほとんど役に立たない。本来ならば「きびだんごを恵んでもらえる」ほどの価値はない。

四人の力士では、4キロ先に弾丸を命中させたり、走る才能や、台風を呼ぶ才能も、日常生活で生かされる機会はほとんどない。桃太郎や最初の力士に協力して貢献したにも関わらず、たいした褒美を得られなくてかわいそうだと見ることも可能だが、彼らにとってかわいそうなのは、ずっと「才能を発揮する場がなかった」ことではないだろうか。桃太郎では、きびだんごすら桃太郎と出会うまでは恵んでもらえず、四人の力士の他の三人の力士は才能を発揮する場所すらなかった。もし、優れた桃太郎や最初の力士のようなリーダーと出会わなければ、彼らは何もなすことなく埋もれていたであろう。そう考えるならば、彼らは「才能を発揮する場」という最高の報酬を手にしたと見ることも可能である。

その一方で、リーダーであった桃太郎と最初の力士は莫大な報酬を手にする。これは、打ち立てていた目標の大きさによるのではないだろうか。大きな目標を打ち立て、その実現のために周囲を巻き込み、苦難を乗り越えて成功するにはふさわしい報酬だと、物語の作者だけでなく、両国における読者たちの支持が積み重ねられてきた証しだと筆者は考える。

では次に、桃太郎と四人の力士の差異に着目する。桃太郎では、猿もキジも犬も、最初にきびだんごを恵んでもらったことで仲間になった。そのため、適切な仕事をし、能力を発揮した。それに対して、四人の力士では金銭や物のやりとりが見られない。無報酬だったのである。そのため、速く走れる力士はあろうことか途中で居眠りをしてしまう。寝てしまう、という行為から、最初の力士のミッションへの情熱を感じていなかったのではないだろうか。また、そのミッションへの情熱のためには、金銭なり物なり、何らかの要素が必要だと考えられる。

それから、重要な差異として、倒すべき相手に対して自発的に向かっていったのが桃太郎なのに対し、四人の力士では倒すべき相手が向かってきた点が挙げられる。桃太郎には、最初から鬼という倒すべき相手が思い描かれていた。だから、道中で動物たちを餌付けしてでも仲間に引き入れた。それに対して、四人の力士では倒すべき相手が最初は見えていなかったのではないだろうか。もし相手が声をかけていなかった場合、話が成立しなかったであろう。この点について、筆者は島国で逃げ道がない日本と、大陸で逃げ道ならいくらでもある朝鮮半島の歴史の差異があると考える。目の仇がどこにいるか、日本ではわかる文化なのに対し、朝鮮半島では必死に探して見つけ出すなど、幸運に頼るべき部分があったのではないだろうか。そのため、四人の力士は、相手に声をかけられるという千載一遇のチャンスを生かすという筋立てになったのだと考えた。

(サンプル、以上)

次回の記事では、上記サンプルの解説をします。

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文学レポートサンプル「桃太郎と四人の力士の比較」の解説

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レポートサンプル:「一人前」でない者の人権~日本国憲法とマイノリティの哲学


レポートサンプルを公開します。今回は、政治をテーマにしました。

今回のお題は、課題図書「一人前でない者の人権」を要約しながら意見を述べるです。政治や法律、人権を卒論のテーマにされる方にとって、日本におけるマイノリティに着目するのも論文のオリジナリティを出すうえで効果的な方法の1つです。
アイヌ民族、在日韓国・朝鮮人、先天性身体障害者、ハンセン病患者、宗教的少数者といった様々な「不利な立場の少数者」は、「法の支配」ではなく、「管理的指令の支配」に服し、不利益を被ってきた。しかし、彼らが直面する不条理な現実を扱った研究は存在しなかった。その背景には、日本国憲法をめぐって、「有利な立場の多数者」である「われわれ」と、「不利な立場の少数者」である「かれら」という潜在的な分類が行われていたことが考えられる。
「かれら」は「多様」な存在であり、日本国憲法によって権利も保障されている。それにも関わらず「不利な立場」であるのは、「法」が憲法の規定と両立せず、「ズレ」や「ねじれ」というコミュニケーションの「歪み」が存在してきたからである。
アイヌ民族は、「土地」をめぐるコミュニケーションの「歪み」によって、人権侵害状況に置かれることになった。1898年の北海道旧土人保護法や戦後の自作農創設特別措置法などによって、彼らは「法の支配」ではなく、「管理的指令の支配」に服すことになった。これらの法律は、アイヌ民族の理解を得る努力もなされずに実行されたため、公布性要件、明晰性要件、服従可能性要件、態度随伴条件等に違反する。その根底には、注視されてこなかった価値観の違いがある。日本人にとって土地は「財産」であったが、アイヌ民族にとっては、「アイデンティティの基盤」であった。こうした違いや日本人の無関心から「土地」をめぐるコミュニケーションの「ズレ」が生まれ、アイヌ民族に対する人間疎外が深刻化したのである。
在日韓国・朝鮮人は、「国籍」をめぐるコミュニケーションの歪みによって、深刻な人権侵害状況に置かれることになった。サンフランシスコ講和条約は「日本の侵略主義の結果を侵略前の状態に戻す」理念であったが、結果的には「日本国籍を剥奪し、その権利が否定され、差別的処置が合理的である状態」に戻すことになった。
先天性身体障害者は、「優生」と「環境」をめぐるコミュニケーションのズレによって人間疎外に置かれることになった。環境基本法が「現在および将来の人間が健全で恵み豊かな環境の恵沢を享受するとともに人類の存続の基盤である環境が将来にわたって維持されなければならない」という理念を掲げているが、「先天性身体障害児童等の不良な子孫が出生しないように」という優生保護法の価値前提と結びつくことで、先天性身体障害者への差別につながっている。本来ならば、「環境保護運動に携わる人々の主観的善意が、先天性身体障害者等の排除という権力志向に転じていくこと」を断ち切るために、「障害者でいる権利」や「病弱である権利」を承認した上で、環境保護法や環境保護運動の理念や目的を彼らの視点から問い直すことが必要なのである。
ハンセン病患者は、「愛国心」をめぐるコミュニケーションの「歪み」によって、人権侵害状況に置かれた。ハンセン病患者は、「日の丸の汚点」という「国辱」意識と富国強兵政策によって、撲滅が図られた。その根底には、愛国心の観点から民族浄化を目指す優生思想があった。らい予防法には「ハンセン病患者の医療を行い、その患者個人の福祉を図る」という理念があるが、「らいを予防することをもって、公共の福祉を図る」ことに置き換えられ、病気を阻止するのではなく、弱いハンセン病患者を社会的に撲滅することになった。
宗教的少数者は、首相の靖国参拝をめぐる訴訟で、コミュニケーションのねじれによって人間疎外に陥った。大阪地裁判決では、慰謝料の請求という形式面の背後に違憲問題があったが、両者の矛盾によって斥けられた。福岡地裁判決では、形式的には被告が勝訴するが、裁判官が「応答可能性としての責任」を果たすべく、憲法解釈をめぐる蛇足部分で原告を利することになり、議論となった。こうした宗教的少数者は「国賊」として扱われ、現在では国旗・国家法が制定され、彼らの良心の自由や信教の自由が侵されることになっている。
以上の者や、知的障害者や認知症患者のような「主体」または「人格」として「一人前」でない者にも、日本国憲法は「人権」と「生存する権利」を保障するものと考えるべきである。
しかし、「土地」「国籍」「優生」「愛国心」を「管理する者」が、「一人前」でない「管理される」者を抑圧してきたのには、「民主主義の促進」「侵略主義の否定」「人間の進歩」「公共の福祉」の美しい理念を示す言葉が実態を隠蔽してきたからである。こうしたコミュニケーションの「歪み」を正していくためには、「合意なき共生」を「共生なき合意」に先行させる必要がある。
さらに、日本国憲法自体を政治権力と人民という「管理的指令」に改正しようという動きもある。そのため、北海道旧土人保護法やらい病予防法等の廃止に目を奪われるのではなく、「われわれ」は常に政治権力を批判的に見続けなければならない。

以上が、レポートとなります。テーマもかたいものなので、レポートの雰囲気もややかためになっています。レポートの解説は次の記事でお伝えします。

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